昭和38年11月9日
三井三池三川鉱炭じん大爆発
9日午後3時10分頃、大牟田市三川町 三井三池鉱業所三川鉱第一斜坑の坑口から約500メートルの坑道で大爆発事故が発生。
坑内には爆発当時1220余人がおり、うち400人が脱出したが、死者458人、一酸化炭素中毒者約839人という日本炭鉱史上2番
目の大惨事となった。死因の内訳は、爆死20人、ガス中毒死430人だった。
緑ケ丘、大谷、万田など九つの社宅には棺が次々に帰って来、朝になっても誰も動こうともしなかった。そして、それは
被災者家族の長い闘いのはじまりでもあった。
爆発直後、大牟田医師会は、医師会員を足止めし、収容可能なベッド数を調査確保して、三井鉱山に対し援助を申し入れ
たが、三井鉱山は「労災との関係で患者を会社の管理下に置きたい」という思惑からこれを拒否。患者の治療はさらに後手
後手となっていった。
昭和38年11月11日
厚生省は、炭じん爆発事故による負傷者の中に、一酸化炭素(CO)中毒で呼吸困難や意識不明となっている患者がかなり
いるという地元対策本部からの要請により、九州地区の国立病院から血液、精神科関係の医師数人を現地に派遣することを
決めた。
昭和38年11月18日
治療当時は全く症状がなく元気だった人たちの中に、数日経ってから症状が出たり、一度退院したのち再発入院する人が
目立ちはじめた。「ふらふらの状態」で昇坑した人たちは、鉱業所病院の医師から「疲れたのだ、帰って休みなさい」と
ミカン2、3個を与えられたのみで帰され、本来なら安静にしておかなければならないその人たちのの多くが、不眠不休で通
夜や葬儀の手伝いに奔走していることも大きな一因となった。
昭和38年11月19日
事故による中毒患者160余人を収容している大牟田市の三井鉱山天領病院は、4人の患者を「中毒性精神病」と認め、久留
米大学付属病院精神科病棟に移し保護室で治療を続けることになった。精神病院に収容されたのはこれが初めてとなった。
昭和38年12月5日
後遺症患者に、半身不随、けいれん、精神不安定、ヒステリー症のほか、いつ回復するかわからない記憶喪失者が続出。
入院患者284人のうち、意識不明の状態を続けている者4人、意識はあっても精神障害を起こしている者が約180人。この内、
痴呆状態にある者約50人、物忘れしやすい者が約130人となった。
昭和38年12月27日
医療調査団が「後遺症に長期治療を」と発表
昭和39年11月8日
爆発事故により一酸化炭素中毒にかかり治療を受けている三川鉱の鉱員約400人のうち、新労組56人が会社側の要請に
より一年振りに集団で職場復帰、7日三川鉱坑内を見学した。
昭和39年12月1日
労働省指導により荒尾職能回復指導所を開設。三井鉱山職員が訓練指導員になった。その訓練とは名ばかりで、主として
体育的訓練がおこなわれたに過ぎなかった。
昭和39年12月28日
労働基準監督局は、ガス中毒被災者に対して、治療を打ち切り万田訓練所へ入所せよと通告。
昭和40年3月24日
CO中毒患者・家族の会結成
昭和40年4月30日
大牟田労災病院は入院中のガス中毒患者(三池労組9名、新労組9名、職組5名)に対し、症状は軽くなったとして退院通告。
昭和40年12月23日
同じくガス中毒患者43名に対し退院通告。退院期日を昭和41年1月10日と指定。これを拒否した三池労組側患者はリハビリ
治療を中止された。
昭和40年12月27日
三池労組は労働大臣に対して「CO中毒患者治療についての労働省に対する要請書」を提出。CO被災労働者援護措置法(CO特別
立法)の成立まで治癒認定=障害等級決定の凍結を要求した。
昭和41年6月26日
第51回通常国会最終日、CO特別立法成立まで療養の打ち切りを行わないことなどの決議と覚書がなされた。
昭和41年8月13日
三川鉱大爆発の責任追及に自信を持って取り組んでいた福岡県警であったが、三井鉱山の起訴に積極的であった福岡地方
検察庁検事正や検事が異動させられ、県警刑事部長も中途退官させられて、三井鉱山は不起訴処分となり、458名の死者と
839名のCO中毒患者を発生させた三井鉱山の刑事責任は不問に付された。その不起訴理由の一つが、1人の命よりも、「三井
の社会的貢献度」を優先したという。
昭和41年10月26日
三池医療委員会は「大多数の者は他覚的所見がほとんど認められないのに、現在なお種々の自覚症状を訴える多くの患者が
いるのはおかしい。三池労組の指示で病気を装っているのではないか」といった、いわゆる悪名高い「組合原生病」(働かな
いで収入をうるといったニセ病)という診断を下し、会社側はこの意見書をもとに患者側に対し職場復帰を通告。
昭和41年10月30日
先の通常国会における覚書は無視され、738名に対して労災補償給付打ち切り(治癒認定)の通告がなされた。その通告の根拠
は、10月24日付け三池医療委員会意見書であり、政治に利用された。これを受けて三井鉱山も「治った人は会社の指揮下に入る
こと、特別補償は打ち切る、今後の医療は私傷病扱いにする、すでに定年になった人は10月31日以降は退職扱いにする」を申し
入れ。
新三池労組はこの申し入れを受け入れたが、新労組合員の患者及び家族は「治らないからさらに診療を続けてほしい」と審査
請求を求め、その数は新労だけでも125名にのぼった。
昭和41年11月24日
政府は労災補償給付打ち切りを撤回。審査請求に対する再検診を実施。その結果、三池労組所属の通院患者の中に入院の必要な
者16名、新労に属する93名のうち55名が職場復帰は不可能、という結論に達し、大牟田労災療養所医師たちの診察結果がくつがえ
された。
昭和42年1月19日
これに対し、大牟田労災療養所の医師全員(6名)が前代未聞のサボタージュを実施。入院中のガス中毒患者は「組合原生病
(ニセ病)」だとして職場を放棄。給食打ち切りを行うとともに、「ここにある聴診器一つ、注射一つも病院のものだからあなた方
に対しては使えない。」と三池労組・社会党に対し、露骨に敵意をむき出して即刻退院を迫った。当然、CO患者の家族の会など
は療養所内で抗議の座り込みをはじめた。会社直系病院の医療倫理が問われた事件であった。
昭和42年7月15日
CO中毒患者救済特別立法を求め、患者家族の会ら75名が三川鉱坑道に丸三日144時間座り込んだ。
昭和42年7月21日
炭鉱災害による一酸化炭素中毒症に関する特別措置法、成立。しかし、患者家族の最低限の要求である「完全治療」「前収入
の補償」「解雇制限」は明文化されなかった。
昭和42年9月28日
28日午前5時頃、大牟田市西港町 三井三池三川鉱坑内で火災が発生。死者6、不明1、二百数十人が再びCO中毒患者となる。
昭和43年1月7日死者6、不明1
三池労組一酸化炭素中毒患者家族と遺族会の主婦29人は、昭和38年炭鉱爆発事故によるCO中毒患者と遺族の取扱についての
会社回答を不満とし、8日朝9時から三池鉱業所前のテントで無期限のハンストに入った。
昭和43年1月25日
炭労は三井鉱山から提案されていた「CO患者及び遺族の取扱いに関する協定」に正式調印。三井鉱山は「これでCO問題はすべて
解決した」と宣言。しかし、現実には多くの後遺症をもった患者たちが残され、家族の苦悩や家庭破壊に対する償いは何一つなさ
れなかった。炭労も三池労組も、三井の権力と資力の前に敗れていかざるをえなかった。この時から多くの患者家族たちに、総評
・炭労・三池労組からも裏切られたという思いが募っていった。
昭和43年1月30日
CO中毒死者の遺族たちが三井三池鉱に損害賠償を請求。炭鉱災害によるCO中毒死の遺族が損害賠償の民事訴訟を起こしたのは
全国で初めてだった。
昭和43年3月22日
4年4カ月ぶりに三池CO中毒者の二百三十余人が就労した。
昭和43年4月11日
282人が職場復帰。坑内111人。坑外171人。しかし、そのほとんどが頭痛や吐き気、手足のしびれ、物忘れなどの後遺症を訴え
た。三池ではこうした人たちの他、手足が動かない、口も耳も不自由といった重症患者と、通院したりして機能回復訓練を受けて
いる患者が合わせて90人いる。「近い将来、不具者のまま解雇されるのでは・・・」という心配が患者・家族の間でささやかれた。
「これからは、企業責任を問うだけではなく、被災者の将来を保障する積極的な政府の対策がほしい」というのが、関係者の一致
した声であった。
昭和47年11月16日
CO患者村上正光、松尾修、家族村上トシ、松尾薫虹の2家族4名が「損害賠償請求訴訟が、加害企業の責任追及と補償義務の履行
を迫り、企業の犯罪性を大衆の眼の前に暴露することができる唯一の方法」として、三井鉱山に対し損害賠償請求訴訟を提訴。
これに対し、すでに「CO患者及び遺族の取扱いに関する協定」に正式調印していた三池労組は猛反対した。
昭和48年4月17日
さらに、CO患者の大坪金章、大坪ミヤ子、藤末又義、藤末ツギエの4名が松尾らによる損害賠償請求訴訟に合流。
昭和48年4月20日
損害賠償請求は物取り主義だと松尾らを批判していた三池労組も、損害賠償請求マンモス裁判をおこすことを決定。と同時に、
松尾薫虹さんを「組織決定に従わない者」として組合から除外した。
昭和48年5月11日
三池労組が遺族とCO患者422名を原告としたマンモス訴訟を福岡地裁に提訴
昭和48年6月1日
福岡地裁において「三池CO裁判」の第一回口頭弁論が開始。原告の意見陳述の中で、松尾さんは「三井は労災補償に肩代りし
てもらうだけで、家族の苦しみにたいしては全く償っていない。三井はまず被害者に陳謝せよ」と迫った。これに対し三井鉱山
は「原告らがどの程度精神的苦痛を受けたかは私たちは知らない」と冷たくあしらった。
昭和48年11月9日
三池炭じん爆発から10年目に口頭弁論開始。「会社側が合理化・経費節減により、坑内にたまった炭じんに対する散水・炭粉
散布などの安全対策をしなかったため」と事故の原因を強調、続いて遺族やCO中毒後遺症に悩む患者たちの生活実態について陳
述した。
昭和49年1月6日
CO中毒により意識不明のまま10年間寝たきりであった宮嶋重信さんが、33歳の若さで亡くなった。
三井三池事故の大爆発以来、CO中毒のため意識が戻らず、”生けるしかばね”として生きた10年2カ月。宮嶋さんの闘病生活
は全く悲惨なものだった。目も見えず、ものも言えず、耳も聞こえず、最近はすっかりやせ衰え、背中が腐ったようになって、
所々血が噴き出していた。宮嶋さんの両親は、「息子は人間ではなかった。ミイラのようになり、化け物だった。せめて昔の姿
で死なせたかった。この恐ろしさを会社の幹部に見てもらいたかった」と涙を浮かべながら訴えた。
昭和49年11月9日
昭和47年2月に治癒したとされた組合員23人のうち19人が、「性格の変化、目まい、頭痛などが残っており治癒していない」
と、認定を不服として福岡労基局に訴えたが棄却された。
昭和59年1月19日
世界一安全な炭鉱と言われていた三池炭鉱有明鉱で坑内火災が発生。死者83人だった。
昭和60年4月21日
三池三川鉱炭じん爆発賠償マンモス訴訟団の422人が和解交渉へ入った。
昭和60年8月21日
390人の原告を抱え和解交渉の受け入れを決めている三池労組は、和解拒否派(30人)グループを除名。同一歩調をとって
きた原告団は13年目で完全に分裂した。
昭和62年7月17日
三池労組主導の三池CO中毒訴訟原告団が死者400万円の補償で和解案受け入れ。14年ぶりに決着をみた。
一方、和解を拒否した32名(沖克太郎元組合長ら)は新しい弁護団と新原告団を結成。これを支援するCO共闘会議が全国に
組織された。
平成5年3月26日
松尾さんら単独組の判決及びマンモス訴訟の和解拒否派32名に対する判決が下された。判決は、三井鉱山の過失責任を認め
るとともに、原告全員をCO中毒後遺症と認定した。しかし、家族に対する慰謝料は認められず、松尾さんら単独組は控訴。マ
ンモス訴訟の和解拒否派は控訴せず、三井も控訴しなかったことから判決が確定した。
平成6年8月4日
三池CO裁判の少数派原告団の1人であった松尾修さんが死去
平成8年3月
三井鉱山は、来年閉山を理由にCO協定を破棄
平成8年11月7日
「三池労組がCO協定廃止に合意しても被災者の会は承服できない」と三池CO協定外泊送迎訴訟を提訴。
平成9年3月30日
三井三池炭鉱閉山。
1960年の三池争議を闘い、”日本最強の組合”と呼ばれた三池労組の決起集会が30日午後、大牟田市労働福祉会館で行われ
た。かつて2万人を超した組合員はわずか15人になった。
平成12年4月15日
CO患者の家族の妻M.Sさん(79歳)は、「夫は被災当時46歳。身体は頑強で仕事にも教育にも熱心でした。あの爆発に
よって被災し、意識不明のまま三井病院に収容されました。4日目にようやく意識は戻りましたが、トイレに行っても用便
の仕方を忘れているのにがく然としました。満腹感がないのか、見舞いにもらった食べ物なぞ全部食べてしまうので一時も
目が離せませんでした。その後、大牟田労災病院へ転院し、診断書には、物忘れ、性格変化、失見当識、知能低下、意欲低
下、記憶力障害、記銘力障害などがあり、常時介護が必要と記されました。・・・被災当時の生活実態は、高1の長男をは
じめ、小4、小2の男の子と、年老いた父親をかかえた生活は大変でした。・・・夫は、被災前は親を非常に大切にしてい
ましたが、「年寄りは早く死ね」と本気で怒って言うので、私は大変心配していましたが、その父親も85歳で亡くなりまし
た。・・・夜はベッドにくくりつけられ、昼間は椅子にくくられているという生活の中で、本人はなぜ自分が不自由にさせ
られているのかが理解出来ないのです。私も腰の手術以降は歩くことも不自由です。・・・CO協定が破棄され、送迎までも
打ち切られたことは納得がいきません。会社は最後まで責任を持つのは当然です」と訴えた。(三池CO被災者の会ニュース
から抜粋)
平成12年4月25日
三池CO協定外泊送迎訴訟、福岡地裁、勝利判決。その内容は、
1 CO協定廃止を会社と三池労組は合意をしたが、CO被災者の会は認めていない
ので、会社とCO被災者の会の間ではCO協定は存続している。したがって、CO
患者の外泊送迎をこれまで通り会社が行うこと
2 三井鉱山と三井石炭は連帯責任がある
というもの。
三井側は判決で支払いが命じられた金の内、過去の分の一時金250万余円を判決当日に支払ったものの控訴。原告団も
「CO患者の付添人費用請求を認めよ」として控訴することになり、今後は福岡高等裁判所に舞台をかえて裁判が続けられ
ることになった。
平成13年11月15日
三池CO協定外泊送迎裁判の福岡高裁判決公判が開かれ、一審判決(福岡地裁)と同じく原告勝訴が言い渡された。しかし、
三井鉱山福岡支店は支店長不在を理由に原告団が申し入れた「謝罪」等の要求に対して具体的な回答を示さなかった。
平成15年7月
三池CO被災者の会は、先の「三井による謝罪」を含めたこれまでの5項目(1.裁判経費5600万円の支払い 2.被害者とその
遺族、家族への謝罪 3.CO患者、遺族と家族の生命と生活の補償 4.保安の確立 5.交渉窓口の地元設置)の要求のなかで、
1 謝罪を求めること
2 その代償としてこれまでの裁判経費5600万円を支払わせること
3 CO患者が生きている限り、双方の窓口を設けること
の3項目に絞って交渉を進めていくことを提案。これに対し全国CO共闘会議は「三井は金を出す代わりに、今後はCO関係につい
て会社は一切終わりとすると言ってくるだろう。それでは何のためにこれまで闘ってきたのか意味がない。」と反対。何度も激
論が交わされた。
平成15年11月
三池CO被災者の会から、支援組織であった全国CO共闘会議が分離。今後、抗議集会も別々に行われることになった。その経過
は別添ページのとおり。
平成15年11月17日
大牟田市の三井三池三川鉱で起きた炭じん爆発事故から40年を迎え、三池CO現地共闘会議主催の「第40回三池大災害抗議集会」
が16日、熊本県荒尾市のあらおシティモールで行なわれ、CO中毒患者の家族、支援者ら約250人が参加した。支援組織分離後では
初の抗議集会となった。