ある「三池のこどもたち」の死
「覚えたてのパソコンで故郷情報を何気なく探していたらこの欄がありました。私は、鶯町と
大島社宅に住み、緑ヶ丘小、二中の出身です。今も炭鉱社宅での生活が懐かしい1人です。あなたがいたという若葉町社
宅にもたくさん友達がいました。しかし、社宅がなくなってみんなが散り散り。クラス会も開けません。このサイトに
故郷の香りがしました」。
このメールをいただいたのが2003年1月。その、私と同じく炭鉱長屋に郷愁を感じていた河口さんが去る10月19日、病
に倒れ帰らぬ人となった。56歳の若さだった。
ある時、千葉県の○○市民新聞編集長だった河口さんは私のホームページ「異風者からの通信」を記事にしてくれた。
何度かメールのやりとりをしているうち、私の次兄と故郷の荒尾市立緑ヶ丘小学校で同じクラスであったこともわかる。
なにがなんでも河口さんと会ってみたいと思った。私は昨年3月千葉県の河口さんを訪ねた。自宅の書斎には三池炭鉱に
関する書物が多く並べられてあった。河口さんもまたふるさと三池にこだわるひとりだったことを知る。
そんな河口さんが、子供時代の実体験から三池闘争にこだわる私に、「団結していたひとつの組合が三池争議で第一と
第二に分かれてしまったことで、同じ場所に住む社宅の仲間とその子どもたちもそれぞれに相手を罵り仲たがいしてしま
ったが、それまでは仲よく学び遊び暮らしていた。そのことを忘れないでほしい。」と言った言葉が今も忘れられない。
10月10日頃だったか、河口さんがめずらしく私に電話をくれた。「今入院している。私の命もそう長くはないらしい」
という内容だった。その声が少し苦しげに聞こえた。その時私は「見舞いに行きますから」と答えた。
そして、まだ見舞いに行けないままでいた11月8日、1通のメールにより河口さんの死を知る。それは、熊本県に住む
妹さんからのものだった。
「はじめまして、私は○○市民新聞河口の妹です。兄の記事を見るのが楽しみでインターネットを開き、異風者からの
通信も知りました。去る10月22日の兄への弔辞では、がんばろうの労働歌が好きだったと聞かされました。父や兄を想う
とき、私も異風者からの通信を開きたいと思っています。」
私はまだ河口さんとの約束を果たしていない。こんなに早く逝ってしまうとは思ってもみなかった。いまそんな
自分が苦しい。
弔辞で、「"がんばろう"の労働歌が好きだった」と述べられた河口さん。彼もまた、「三池のこどもたち」だった・・・。
(2005年11月14日 まえかわ)
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