2008年7月21日(月)晴 − 警察法第3条 −
7月21日付け毎日新聞による特集記事を読んでの話。
「本年5月18日午後5時ころ、JR国分寺駅近くにあるマンション出入口のオートロック付き扉外側にある集合ポストに議会
報告ビラを投函していた共産党市議が、数人の住民とその大家の自民党市議からの被害届を受けて、警察から事情聴取を受けた
上に被疑者写真まで撮られ、住居侵入の罪で書類送検されたという事件があった」。
同集合ポストには「チラシ一切禁止。悪質なチラシ配布は警察に通報する」という警告文が掲示されている。しかし、同集合
ポストの設置場所はオートロック付き扉の外側。誰もが自由に出入りできる所。
果たしてこれが住居侵入の罪に当たるかどうか、ということであろう。
この事件について、私の想像ではあるが、たぶん、自民党市議らからの苦情相談を受けた警備警察が、同人らに対して被害届
の提出を積極的に求めたものと思われる。通常であれば警告で済むところを、対象が共産党であったところから、警備警察が
色気を出したのではないかと考える。
警察法第3条において、すべての警察職員は「不偏不党かつ公平中正」であるべきことを唱っているが、実務は決してそうでは
ないことを、我々は肝に銘じておくべきである。それは私の実感でもある。
なお、自民党市議はその後被害届を取り下げ、共産党市議は不起訴処分となったという。これもシナリオどおりのような気が
してならない。三池の歴史は繰り返される・・・。
2008年5月31日(土)雨のち曇 − 「蟹工船」現象 −
新聞を眺めていても、最近なかなかハッとするような記事に出会うことが少なくなってきた中、「『蟹工船』20万部増刷、
ワーキングプア背景」という記事(5月31日付け毎日新聞)が目に飛び込んできた。
小説「蟹工船」は、プロレタリア文学作家・小林多喜二の代表作品(昭和4年)。多喜二は昭和8年2月20日、特高警察に逮捕
され、同日夜、同警察署内で殺された。29歳のときだった。その昭和8年といえば、日本とドイツが国際連盟を脱退した年でも
あった。
我が家にも、父の遺品として、徳永直や葉山嘉樹の作品と並んで小林多喜二の「蟹工船」があり、少年の頃、夢中になって
読んだ記憶がある。
その「蟹工船」が今、よく売れて「一部書店では品切れ」状態だといい、「ワーキングプアの現状が『蟹工船』の世界に通じ
ている」からだという。いまでは「もはや社会現象」だとも。
2007年11月14日(水)晴 − 「新テロ対策特別措置法案」が意味するもの −
海上自衛隊によるインド洋給油活動を再開させるための新テロ対策特別措置法案が13日の衆院本会議で可決された。
これに対し民主党は反対の立場を取るが「国連が認めた活動であれば反対せず、地上戦も辞さない」と表明するが、
どちらも似たり寄ったりではないかと思った。
そもそもテロ(テロリズム)とは何か。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「一般に恐怖
心を引き起こすことにより、特定の政治的目的を達成しようとする組織的暴力行為、またはその手段を指す。歴史的に
は国家・行政組織側による暴力的抑圧(恐怖政治、粛清等)を含み、体制・反体制を問わず暴力と恐怖を活用すること
で大衆世論を支配する手段を意味した。」とある。
2007年11月9日(金)晴 − 朝日テレビ「スーパーモーニング」 −
夜勤から帰った9時過ぎ、朝食を取りながらテレビを観ていると、めずらしく、炭鉱のことが放映されていた。
朝日テレビ「スーパーモーニング」での中、「黒ダイヤの地下迷宮廃墟に潜入」と銘打った10分間程の番組。2001年に
閉山した長崎県の池島炭鉱の今の様子である。
元炭鉱マンだったという上品そうな老人が出てきて、「炭鉱の仕事は楽だったよ」と語る。井口アナが人車で坑内に
下がりながら、「遊園地のジェットコースターより迫力がある」とはしゃぐ。最後には、「炭鉱の仕事は大変だと思っ
ていましたが、給料は高く生活は裕福で、坑内には地下鉄のような電車に乗って、さらに動く歩道のようなものに立っ
て現場まで行くという、実に近代設備の中での作業だったようです。」と締めくくっていた。
池島も例外ではなく、1977年(昭和52年)にはガス爆発で3人が死亡し、2000年(平成12年)には坑内火災事故が起き
ている。また、じん肺の裁判問題も抱えている。しかし、そんなことなど忘れられてしまったかのようである。池島炭鉱
は三井系。「負のイメージでは放映しないでほしい」という朝日テレビとの事前取り決めがあったのかも知れない。坑内
労働はそんな生やさしいものではないはずだ。
2007年7月16日(月)曇 − 俺はやっぱりヤマの子 −
ある方からメールをいただいた。その方のメールから察すると、私のHP「異風者からの通信」が、耳障り、目障りと感ずる
ことがあるらしい。しかし私はその人が思うほどの極端な左翼的思想の持ち主でもなければ右翼でもない。とは言っても、
どちらかと言えば、一見左寄りに見える点もあるかも知れないが、それはそれ、三池闘争の最中を生きてきた両親の子と
しての性かも知れない。その子として言わせてもらうなら、「父ちゃんが三池炭鉱で働きよったこつば誰にも言うたらでけん」と
かつて母が私たち子どもに言い放ったことがあるように、「オリげにとって三池争議ちゃいったい何やったとじゃろか」という私の
自問自答が、10年続いた「異風者からの通信」を支えてきた理由なのかも知れない。
形あるものは残そうと思えば残せるが、形のないヤマのこえは、よほど意識して取り掛かっていかなければ残していけない。
そのヤマのこえを耳障りに感じる人もいるかも知れないが、私は私の思いをこの先も貫いて行こうと思う。私はやっぱり今も
ヤマの子なのだ。損もなければ徳もない。上品ぶってもしかたがないではないか。
2007年6月23日(土)晴 − 新しい歴史教科書をつくる会 −
「新しい歴史教科書をつくる会」とはナニモノなのか。その存在を不気味に思うときがある。
ひと頃、従軍慰安婦などの記述問題や、九州・筑豊地方の炭鉱等への朝鮮人強制連行問題の打ち消しにやっきに
なっていたかと思えば、最近では軍命による沖縄戦民間人集団自決に関する教科書記述問題の打ち消しにやっきにな
っているようである。
自衛隊がすべての国民の動向把握に関する情報収集を行っていると最近マスコミで報じられていた。その存在は
警察も含めて昔からあったことは知っていたが、あらためて報じられるとやはりいい気持ちがしない。
「歴史に学ぶ」という言葉があるように、負の歴史は二度と繰返さないために正しく伝えなければならないはずである。
そのうちに「しまった!」と思う時代がきっとまたくるような気がしてならない。そういう不安を感ずる。
2007年5月8日(火)晴 − 憲法9条 −
「私は日の丸が好きだ」と、こう書けば、今度は右翼だとまた非難されるのだろうか。
私の家には、ある思い出の「日の丸」が額に入れられて飾ってある。私は特にオリンピックなどで日の丸が掲揚されている
場面を観るとジーンとしてくるタイプである。そのことだけをとらえて「あいつは右翼だ」とまた決めつけられてしまうのだろうか。
そして今度は「憲法9条は守りましょう」と言っただけでなぜ左翼だと言われて非難されなければならないのか、それが私に
はよくわからない。なぜ人をそう簡単に右だとか左などと簡単に区分したがるのか、それがネットの特徴、悪い面ではない
か。
私は「日本」を愛している。それはいまもなお、宗教の違い、民族の違いなどから殺し合いが絶えない他外国にくらべて
「日本」が平和だからだ。
それはやはり「憲法9条」の存在が大きいからではないだろうか。その「憲法9条」を守ろうと素直に願って、なぜ、左翼だとか、
挙句の果ては三池がどうのこうのと、私のふるさとのことまで非難されなければならないのか、私には解せない。
2007年4月28日(土)曇のち雨 − 母の夢をみた −
先日、久しぶりに母の夢を見た。
一枚の写真をジッとみつめる母がいた。そして突然ワッーとテーブルの上に泣き伏す母。それは私がパソコンで
拡大印刷した三池闘争時代の社宅の仲間たちの写真。「三池闘争はつらかったか」と私は問うた。母は黙って
うなずいた。そんな母の夢を見た。悲しい悲しい夢だった。
2007年3月27日(火)曇 − 荒木栄の歌が聞こえる −
今、どれだけの人が荒木栄の名を知っているだろうか。昭和30年代、三池炭鉱で繰り広げられた三池闘争を、
また同時期に全国で繰り広げられた安保闘争の中を、生きてきた者たちと、その家族であるならば、名は知ら
なくても、その人の歌は聴いたことがあるはずだ。「がんばろう」「もやせ闘魂」等、父がよくハーモニカで
吹いていたこともあってか、三池闘争当時まだ幼かった私の記憶のなかにも今も鮮烈によみがえってくる。
それが三池炭鉱労働者だった荒木栄が作った曲であることは私もあとから知ったわけであるが・・・。
いま地元大牟田の一部の市民の中から、「荒木栄記念館を建設したい」という活動が起き始めている。その
声は決して特定のイデオロギーに囚われた声ではなく、「いいものはいいと素直に思う人々の心」の声である。
労働者作曲家荒木栄は、ある特定団体の荒木栄ではなく、三池炭鉱の、大牟田・荒尾の、全国の働く者たち
の荒木栄であってほしいと願う者は他にもいるはず。荒木栄の音楽には、私たちが今、忘れかけた、あるいは
忘れてしまった熱いパワーがそこにある。
折りしも今、ドキュメンタリー映画「荒木栄の歌が聞こえる」の制作が進められているようであるが、そうい
う意味からも、同映画制作にも「いいものはいいと素直に思う私たちのこころ」を忘れないでほしいと願っている。
2007年3月23日(金)晴 − 三池閉山10年 −
いま私の手元に「地の底の笑い話」という一冊の本がある。九州・筑豊の炭鉱作家・上野英信
によるものである。
ずっと前、煙草は吸わなかったが肺がんで亡くなった父の本箱の中に「地の底の笑い話」を
見つけた。父は三池炭鉱の採炭夫だった。生前、父の口からは炭鉱にまつわる話は聞いたことが
なかった。聞いたことがないというよりも、むしろ私に聞く耳がなかったというのが正しい言
い方かも知れない。そんな父がどんな思いでこの本を大切にしていたのか。
「地の底の笑い話」ー笑い話と言っても、俗に言う単なる笑い話ではない。たえず死と隣り合
わせの坑内仕事の中で生まれた、悲しくもある笑い話である。
今年は三池閉山10年。61歳で亡くなった父も、生きていたなら94歳。今になって、父の地の底
の話を聞いてみたいと思う。
2007年3月13日(火)曇 − 1本5000円の水を飲んでみたい −
貧乏たらしい話ばかりで申し訳ないが、120円の缶コーヒー1本でさえ、飲もうかどうしよう
かと迷ったりしている今の暮らしの中で、一方では現農林水産大臣が5000円の水を、まさしく
湯水のごとく夜な夜な飲んでいるらしいという話。
自らの資金管理団体が議員会館事務所では無償のはずの光熱水費を、5年間で計約2880万円、
政治資金収支報告書に計上していた問題。その苦しい弁解の話である。
内職で100円儲けるのに1時間かかることもある。同僚の中には、胃潰瘍で血を吐きながら、
お金がないから医者にもかかってないという人もいる。
そういう生活者がいることを本当に知っているなら、ああいう馬鹿げた発想はできないはず。
2007年3月11日(日)曇時々雪 − かあちゃん、死ぐのはいやだ −
滋賀県内でまた鋼材が盗まれる窃盗事件が発生した。他府県においても、溝ブタや公園の
ポールなどが盗まれる事件が相次いでいる。中国オリンピックに伴う建設ラッシュで鋼材の
値が上がったせいだと言われている。
これらの新聞記事を見て思い出すのが、昭和30年代に制作された映画「筑豊のこどもたち」
や「かあちゃん、死ぐのはいやだ」という映画のこと。
中小炭鉱がひしめく福岡県筑豊地方で閉山が相次いでいた頃、貧困に苦しむ炭住の子ども
たちが、当時まだ一部米軍の基地であった板付空港(現・福岡空港)に侵入し訓練中の米軍
戦闘機が放つ機銃放射の中をかいくぐって空薬きょう集めに回るシーンがあった。
映画「かあちゃん、死ぐのはいやだ」では、磁石にヒモを付けて地面で引っ張り回し、古
クギなどを集めて回るシーンもあった。
その後くず鉄は昔ほど見向きもされなくなったが、今また鋼材が相次いで盗まれるほどに
人気が高くなっていることに奇妙さを感じる。
鋼材窃盗事件の背景には何があるのか。単に遊ぶ金欲しさからなのか、それとも、ワーキ
ング・プアという言葉が生まれた今だからなのか、派遣労働者として16時間労働を繰り返し
ても手取り20数万円しかない自分の今を思わず考えてしまう。
2007年3月10日(土)曇 − 雪簾(ゆきすだれ) −
最近、歌で、こんなに感動したことはない。
「雪簾」ーNHKのど自慢チャンピョン大会でグランドチャンピョンに輝いた、盲学校の
16歳男子生徒が熱唱した歌である。「この人がグランドチャンピョンに間違いない」と、聴
いている方にもそう確信させる歌いぶりだった。
「雪簾」は誰の歌だったのか、ちなみにネットで調べてみると神野美伽とあった。しかし
私は「雪簾」も「神野美伽」も知らなかった。恐らく、そういう最近の歌手が歌っても感動
しなかっただろう。それを私たちに見事感動を与えてくれたことに、彼の凄さ、人間性を感
じた。
孫の応援のため会場に駆けつけていたおじいちゃん、おばあちゃんの喜びぶりも凄かった。
最近、歌を聴いて、こんなに涙したことはない。
2007年3月8日(木)曇 − 死者からのメール −
ヒロエさん、54歳。4日午後2時40分ごろ、兵庫県の最高峰・氷ノ山(標高1510m)に入山し、
その後遭難、6日午前、山中の滝つぼで遺体となって発見される。
彼女との出会いは昨年9月28日、三池炭鉱のことを卒論にしたいという女子大生の付き添い
で我が家にやって来たことによる。どこの馬の骨ともわからないオッサンの家に女子大生を
一人でやらすのは危ないと思ったかどうか、映画「ひだるか」が縁で知り合った二人だった。
当の女子大生よりもよくしゃべる人だった。手土産に家庭菜園で採れたというたくさんの
野菜とソバを持ってきてくれた。ショートカットの美しい人だった。
「いま鹿児島の屋久島行きフェリーに一人で乗っている」とメールを送ってくれたことも
あり、突飛な行動(?)に出る人だなという印象があった。
そんな彼女の名前をテレビニュースで知った。携帯から「遭難した。助けて。」という連絡
が何度か家族にあり、その後電波が不通。寒さなどで力尽きたのだろうか。下山時間を見誤っ
て暗くなり道を迷ったのかも知れない。その状況を想像し涙した。
地元登山グループのメンバーでもあったようで、その会長は「彼女はベテランだから大丈夫」
とニュースで語っていた。けれども、ベテランほど危ないということもある。
私も山は好きだ。しかし私は臆病だから危ない橋は渡らないようにしている。よく登山家は
「山で死ねたら本望だ」というが、それは嘘だと思う。死ぬのなら、皆に看取られながら死に
たい。家族もさぞかしくやしかったに違いない。
「さようなら。安らかに眠れ」。彼女の携帯にメールを送った。間もなくして、本人の名で
返信が来た。瞬間びっくりしたが、家族からの「葬儀のお知らせ」というメールだった。携帯
はまだ生きていた・・・。
2007年1月28日(日)晴 − 京都・わら天神 −
わら天神なんかへ行くんじゃなかった。
正式名称、敷地神社。京都市北区衣笠天神森町にあり、安産守護の神として、「わら天神」あるいは「腹帯天神」と
いう名で地元では知られているようだ。「わら天神前」というバス停留所もある。
嫁に行ったこどもが念願の子を授かった。親ばかであるがゆえ、家内と二人、わら天神の評判を聞き、さっそく行って
きた。行く前、「持参した腹帯を祈祷してもらえるか」とあらかじめ電話したら、「原則はお断りしているが、当神社の
腹帯を買ってもらえたら一緒に祈祷する」というので、遠く滋賀から腹帯持参でお参りに行ったが、安産腹帯セット7000円
を買わされただけで結局祈祷はしてもらえなかった。
祈祷受付前は、赤ん坊を抱えた親子や受験生を連れた親子連れ等で長蛇の行列。順番を待つこと30分。宮司の態度は高飛車
だった。「話が違う」と、思わず声を荒げると、「誰かそんな返事をしましたかねえ」と、とぼける。「それはあんただ」
と抗議すると、「ああそうですか。ハイ、次の方、どうぞ。」と逃げた。
観光化のあまり、京都の神社・仏閣は商業主義に走りすぎているという声は以前から聞いてはいたが、それを目の当たり
にするとやはり腹立たしい。京都茶漬けを食わされたおもいである。それとも、困ったときの神頼みがいけなかったのだろう
か。
家内はせっかく来たのだからと、本殿前でお参りをしたが、私は参らなかった。「出産ひと月前に再度お参りすれば
さらに御利益がありますよ」と言っていたが、もう二度と参る気もない。わら天神なんかへ行くんじゃなかった。
2007年1月20日(土)晴 − 声無き声が聴きたい −
長崎の友人が、1995年5月付けの新聞切り抜き記事をたくさん送ってくれた。朝日新聞による「50年の軌跡ー女たちの三池」
というシリーズものである。強制労働、三池争議、炭塵大爆発等、これからもずーっと語り継いでいかなければならない歴史
が綴られている。
いま、長崎の軍艦島等、九州・山口の炭鉱跡を近代化産業遺産として世界遺産に登録し、観光に役立てようという活動が
活発に行われているようである。しかし、これに反発する声も筑豊や長崎から聞こえてくる。
「炭鉱では過去、強制労働や坑内事故等でたくさんの人たちが死んでいった。炭鉱跡を残すということには異論はないが、
それら負の遺産を抜きにした観光化には反対する。」という意見である。
先日、NHK番組クローズアップ現代で朝鮮人強制連行に関する問題が放映されていた。しかし、「強制連行」という言葉が
一切使われていなかったことが気になった。「強制連行はなかった。むしろ日本は戦時中も朝鮮の発展に貢献した」と言い放
つ知人もいるほどである。そういう世論づくりがいま社会では意図的につくられているようにも思える。
今回、送ってもらった古新聞の記事を読みながら、歴史を正しく語り継いでいくことの重要性をあらためて感じた。
2006年12月30日(土)晴 − ひとり笑い −
夜勤明け。雪が残る駐車場を正月用品を載せた買物カートを引っ張っていたとき、足をすべらせ買物カートをひっくり返して
しまった。すぐに起こせずもたついていると、品のいい中年淑女が「大丈夫ですか」と声をかけてくれた。まだまだ若いと自分
では思っていても、傍目から見ると年寄りに見えるのだろうかと、フトそのとき思った。
電車やバスに乗っていて席を譲られるようになったらもうおしまいだなと、思いながらひとり笑いした。幸いかな、私はまだ
席を譲られたことはない。しかし、来年7月には、私も「おじいちゃん」と呼ばれるはずである。
2006年12月28日(木)曇 − ウトロ地区在日朝鮮人1世・崔仲圭さんの死 −
京都府宇治市伊勢田町に所在するウトロ地区の在日朝鮮人1世・崔仲圭さんが12月17日亡くなった。90歳だった。昭和17年、
福岡県嘉穂郡穂波町楽市にあった天道炭鉱に朝鮮半島から強制連行されてきた被害者であった。
亡くなる前の先月の11月、「死ぬ前にもう一度天道炭鉱を訪ねてみたい」という本人の希望を聞いた支援者2人が本人に
代わって同地を訪れた。
亡くなる前には「今、韓国のふるさとへ行ってきた」というのが崔仲圭さんの最期の言葉だったという。
私の父もまた、亡くなるその日、「今、鹿児島へ行ってきた」が父の最期の言葉だった。父は鹿児島県出水市の出身。終戦後
台湾から引き揚げてくると、福岡県大牟田市にあった三池炭鉱で坑夫として地底に潜った。さぞかし言うに言われない苦しみも
あったであろうその三池炭鉱のことは一切口にせず、自分が生まれ育った鹿児島のことが最期まで思い出されたことに私は人間
臭さを感じないではいられない。父にとっては鹿児島がやはり一番帰りたかった場所だったのだろう。
私も死ぬときは、「大牟田・荒尾へ行ってきた」というのだろうか・・・。
2006年11月11日(土)雨 − 映画「三池〜終わらない炭鉱の物語」 −
京都上映の初日、「三池〜終わらない炭鉱の物語」を観た。東京に続いて2回目。不思議なのは、2回目のきょうの方が
さらに感動し涙が止まらなかったこと。同じ映画なのに何故だろうと思った。座席に深く座り、リラックスして映画を観
られたこと、その時の体調が感情にも作用されるのだろうか。
観客は50名近く。若者が目立ったが、中高年齢者が10名ほどいた。隣からも後ろの席からも、鼻をすする音が聴こえて
きた。泣いているのだ。
映画終了後、映画監督と観客とのトークがあった。「父親が三井鉱山の会社重役だった」、「ふるさとが長崎の三菱炭鉱
だった」、「このような映画を創っていただき感謝します」という声があった。
三池を知らない若者にもなぜ映画「三池」が受けるのかー私は監督に聞いてみた。「自分の親たち、あるいは祖父母の
時代、身近なところでこのような出来事があったことを知り、素直に感動した」という声が多かったという。
自分の子供にもわが故郷の映画を観てもらいたいと思う。しかし、我が子供たちは関心がないようである。それが残念
でならない。
2006年10月24日(火)曇 − 株式会社○○小・中学校 −
安部政府は「ダメ教師には辞めていただく」として、教員免許の更新制度導入を打ち出した。それでは「ダメ教師」とは
何か。ワイセツ教師、イジメ教師。たしかにそういう教師もいる。しかし、「教員の質の向上を目指して」というのは建前
であって、制度導入の真の目的はもっと他のところにあるような気がしてならない。
例えば、君が代・日の丸に反対する愛国心のない教師、学習指導要領にこだわらず独自でユニークな授業をしてくれる教
師も、これからは「ダメ教師」の対象となっていくに違いない。
九州筑豊地方に、「ボタ山の見える教育」を推進し定年退職した、とてもユニークな先生がいた。しかし逆にそれが教育
委員会にとっては目障りでたえずにらまれていたという。国家の意にそぐわない人間はダメ教師ということなのだろう。
それでは国家とは何かはさておき、自民党中川昭一政調会長が毎日新聞の取材で答えた言葉がある。「デモをする日教組
活動家は教員免許はく奪」。まさしく、安部自民党政府による教員免許更新制度導入の真の目的はそこにあると思う。
お上からの点数を気にするあまり、いじめがあってもイジメはなかったとする学校の姿勢。そういう風に言わしめさせて
いる国の教育制度。そういうことを思うとき、学校もいよいよ株式会社化してきたのだなということを感ずる。
2006年10月4日(水)曇 − 労働組合ってまだあるのですか −
「労働組合ってまだあるのですか」ー 三池のことを研究しているという或る女子大生が訪ねて来たときの質問である。
彼女の正直な疑問であるだけに、非常に意味深い言葉であるように感じた。そう思わせた昨今の組合にも責任があるのでは
ないか。
リストラをテーマにした映画「ひだるか」の上映協力依頼について或る自治労に打診しても「組合活動とは関係がないか
ら」と断られたことがあったが、労働組合は今ひきこもり状態にあるように思う。いつからこうなったのか。
私たち、或いは社会全体が、知らず知らずのうちに国家の都合のいい人間(社会)にされているような気がする。
2006年8月4日(金)晴 − WORKING POOR −
51歳、男。妻を亡くし男手ひとつで小学生のこども2人を育てる。会社をリストラされ、現在3つのアルバイト仕事で
生計を営むが、それでも生活は苦しく、弁護士になりたいという大学進学希望のこどもは塾通いを望んでいるものの、
深夜も働く父親の疲れた姿を見て、最近ではその夢も「あきらめる」と言っているという。父親にとってはそのことが
一番くやしいと涙ぐんでいた。
先日、NHKスペシャル『ワーキング・プアー(WORKING POOR) 〜急増する働く貧困層』(再放送)の中での一場面であ
る。
日本国民の所得格差が広がり、真面目に働いても、人としての最低の生活すらできない人が1000万人を超えるという。
今年3月末、早期退職勧奨制度により60歳定年に6年を残して退職した。現在、派遣労働者として工場勤めするように
なって4ヶ月になる。休憩時間らしい休憩時間もなく12時間ぶっ続けで働かされることも度々あるが、それでもなかなか
20万が稼げない。そのせいかすぐにやめていく人も多い。
工場には正社員のための組合があるが、組合専従員はおらず名前だけの組合のようである。事務所を除いて現場には
盆休みも正月休みもない。組合の掲示板には、「盆休み返上で稼動します。労使一丸となって増産に励みましょう。」
というようなことが掲示されていた。
恥ずかしながら今、現実のきびしさを肌で感じている。
2006年5月17日(水)雨 − 尊厳死 −
5月13日、NHK週刊こどもニュースで「尊厳死」が語られていた。
ニュースのきっかけは、今年3月、富山県の病院で重症患者の人工呼吸器を医者がはずし7人を死亡させたことが発覚したことによる。
「尊厳死」を認めるべきか否か。「尊厳死」の法制化を目指す運動も起こされている。
そんな中、自力で息をすることができない病気のためノドにチューブをつなぎ機械に助けられて呼吸している、ある重症患者が、
「尊厳死が当たり前の世の中になってしまうと、機械に頼らなければ生きていけない自分たちが生きているのは迷惑なのではないかと
考える時がある。」とテレビの中で訴えていたことが非常にこころに残った。
身体に障害を負わなければならなくなってしまった人たちをそういう風に思わせているのなら、それは問題である。
我が家にも、寝たきりになり物も言わなくなって8年目の養母がいる。お腹に穴を開けチューブで栄養を送り込んでいる。この装置を
取り付けるとき「チューブを取り付けなければお母さんの命はそう長くはないでしょう。どうされますか。せっかくの命、そんなに死に
急ぐことはないとも思うのですが。」と医者が言った。そして妻が「お母さん、チューブを取り付けると、そのぶん長生きするけど、い
いの?」と私に尋ねた・・・。妻のその言葉が今も忘れられない。そう言わしめた妻に申し訳ないと思っている。
三池では、昭和38年の三川坑炭塵大爆発によるCO中毒の後遺症で、今もなお多くの人たちが苦しんでいる。意識不明で10年2カ月寝た
きりのまま33歳の若さで亡くなった人もいた。目も見えず、ものも言えず、耳も聞こえず、その闘病生活は全く悲惨なものだった。それ
でも母親は、「息子はこんな姿になりながらも生きることで、会社に抗議ばしよっとたい」とこれまでがんばってきたという。
どんな人の命も大切にして、みんなでいっしょに生きていくことが大事ではないのか。ましてや、人の命を「尊厳死」とかで法制化して
いくことには、私は反対である。
2006年5月10日(水)雨 − 映画「三池〜終わらない炭鉱の物語」 −
いま、熊谷博子監督作品のドキュメンタリー映画「三池〜終わらない炭鉱の物語」が、東京で以外にも若者に受けている
らしい。4月で終わるはずだった上映が5月も延期上映されるほどの盛況ぶりだ。立ち見席も出ているという。その理由は
なんだろう。
「炭鉱の映画と聞いて、重い、辛い話ばかりなのではないかと、行く前は少し躊躇していました。しかし、この映画は、
重い題材を扱っていますが、決して暗い映画ではありませんでした。イデオロギーに偏ることなく、炭鉱に関わった方々
の声を、静かに拾い上げています。人間をいとおしむ眼差しにあふれた映画で、見終わったら、自分もがんばろう、という
ような不思議な力が湧いてくるような映画でした。出てくる方々が、ひとりひとりみな輝いていました。ぜひ他の方も先入
観なしでご覧になってみてください。」という感想は同映画のホームページの掲示板からによる。
私は決して天邪鬼ではないが、ならば逆に、「重い、辛い話ばかり」ではダメなのか、「暗い映画」ではダメなのか、
「イデオロギーにかたよってはダメ」なのか、とも考える。そういう歴史こそ大切であり真に伝えていくべきではないのか。
三池闘争を闘ってきた親たちの歴史を、私は大切にしていきたいだけだ。
2006年3月21日(火)曇時々小雨 − 水俣病公式発見50年 −
1956年(昭和31年)5月1日、新日本窒素肥料水俣工場附属病院長が「原因不明の中枢神経疾患の発生」を水俣保健所に
報告した。この日が水俣病公式発見の日とされ、今年5月1日で50年を迎える。近年の平均寿命は男子78歳、女子85歳。
そのことを考えたとき、50年はさすがに長い歳月であると思う。
2004年10月、水俣病関西訴訟最高裁判決は国の責任を認めた。にもかかわらず、環境省はいまだに「患者の認定基準の
見直し」を認めようとしていない。現在の「患者の認定基準」はいわゆる軽症患者の切り捨てであり、それは三井三池三川
鉱大爆発が生んだCO中毒軽症患者の切り捨てにも似ている。軽症患者と言っても本人および家族にとっては言うに言わ
れない暮しの日々であったという。「病」という文字がついてはいるがこれは病気ではなく殺人行為であると言う人もい
るぐらいである。その罪は大きく深い。企業及び国は一生その罪を背負って行かなければならないのに、そのことを自覚
していないようである。
2005年10月6日(木)晴 − 政治屋さんたち −
今、小泉政府とマスコミ一体による公務員のモグラたたきが行なわれている。かつて、三池争議における三池労組員が、
また、国鉄における国労組合員が叩かれたと同じように。
つい最近のこと、26歳で国会議員になった若者が、「国会議員っていいですね。給料はめちゃめちゃたくさんもらえるし、
高級料亭にだってタダで行けるし」と本音を吐いて怒られニュースになっていた。
先に数を減らすべきは、これら政治屋さんたちであろう。
2005年8月1日(月)晴 − 帰郷 −
私の母のことをかすかながら覚えているという人をやっと捜し当てた。だが、その人も80過ぎ。体調もすぐれないから
会えないという。もうそういう年代なのかと思った。それとも、何か他にこだわりがあって会いたくないのだろうか、とも
思った。真実を知らない方がいいことだってある。三池闘争に関わった人たちの想いは、そう簡単ではないようだ。
事件現場近くの四ツ山に建っていた久保清さん慰霊碑も、遠く荒尾市の有明成田山大勝寺に移設された。三池闘争に関係
していた人たちも高齢となり、ふるさとから炭鉱の記憶が薄れて行くことに危機感を抱いている。
2005年7月24日(日)晴 − 夏 −
夏の高校野球予選大会9回裏ツーアウト。投手が投げる。打者が打つ。野手が捕る。歓声があがる。悲鳴も聞こえる。
球児たちが笑顔する。球児たちが涙する。こらえきれず、試合が決まる前から涙する者もいた。屁理屈なんかではない、
一生懸命な姿が一番いい。
2005年7月20日(水)晴 − 夢 −
炭鉱をさまようている夢を時々見るときがある。それはいつも同じ風景であるのだが、私の故郷の三池炭鉱ではない。
古びた建物と山があり、そこへ近づこうとするところでいつも目が覚める。そこはどこだろう。
妻の話では、寝言でも私が「三池炭鉱はですね・・・」と語っているという。また、「が〜んばろう〜」とか、
「みんな〜仲間だ〜、すみ〜掘る仲間〜」とうたっている時もあるらしい。「あんたは寝ても覚めても炭鉱のことばかり
やな」と妻が笑う。
私がいま住む滋賀県彦根市の近江絹糸紡績工場跡地に、この7月20日、大型ショッピングセンターがオープンした。
近江絹糸と言えば人権闘争と呼ばれた昭和29年の近江絹糸労働争議が有名。そんな職場に三池争議を支援する「三池を
守る会」があった。今、そのことを知る者がこの彦根市にどれだけいることだろう。
オープンで賑わう大型ショッピングセンターの片隅に、「近江絹糸紡績株式会社 1917創業の地」という記念碑が建つ。
これを眺めていると、故郷の変貌していく三池炭鉱跡を思い出してしかたがない。
2005年7月14日(木)曇のち晴 − 焼き場の少年 −
今年は被爆60年。36歳で原爆症により亡くなった詩人 峠三吉の「にんげんをかえせ」の詩に、原爆症認定集団訴訟全国
弁護団を支援するシンガーソングライター横井久美子さんが「Amazing Grace」のメロディにのせてうたうCDが最近発売
された。
そのCDジャケットを飾っているのが「焼き場の少年」というタイトルの写真である。撮影者は元米従軍カメラマンのジョ
ー・オダネル。時は昭和20年9月。場所はナガサキ。「死んだ妹をおぶって直立不動で火葬の順番を待っている裸足の少年の
唇は、強く噛み締められ血で赤く染まっていた」と説明がある。それは、「背筋が凍るような光景」であったという。
「ちちをかえせ/ははをかえせ/こどもをかえせ/わたしをかえせ/にんげんをかえせ」という歌を聴きながら、この一枚の
写真を見詰めていると涙してくるのは私だけだろうか。
折りしもいまアメリカは、「日本もそろそろ核を持つべきだ」と述べている。被爆国日本もそういうあやまちを犯す時が
くるのだろうか。
2005年6月26日(日)晴 − 反核映画「ゴジラ」 −
映画「ゴジラ」を観た。昭和29年の作品である。ストーリーは、「水爆実験の影響で放射能に汚染されたゴジラが東京に
出現、住民を恐怖に陥れる」というもの。おそらくこれが最初のゴジラ映画作品であろう。
昭和29年と言えば、3月マグロ漁船福竜丸がビキニでアメリカによる水爆実験の被害を受け、同年9月乗組員であった久保
山さんが原爆病で亡くなった年であり、硫黄島にはまだ日本兵2千の死体が白骨同様で打ち捨てられたままになっていた。
また、シベリアの抑留者12000名を乗せた第一船が舞鶴へ引き揚げてきた。
終戦からまだ10年も経ていないこの時代、人々の生活はまだまだ貧しく、戦争による痛手を引きずって生きていた。そん
な惨禍の悲しみが映画「ゴジラ」の場面場面に映し出されている。ゴジラに破壊された東京の焼け野原は、まるで米軍によ
る空襲の跡のようであり、ゴジラによるその被災者たちの姿は、戦争の惨禍に打ちひしがれた被災者たちの姿のようであっ
た。映画の中で、家族を失った中学生が、ゴジラに向かって「畜生!!」と言って怒りを表わす場面がある。それは、かつ
ての敵国アメリカに向かって発せられた怨みのようであった。
今年は戦後60年。奇しくもこの年、占領国アメリカの検閲によって闇に隠されていた故ジョージ・ウェラー記者の幻の
ルポ「1945年9月 長崎にて」が60年ぶりに公開された。それは、長崎に投下された原子爆弾の放射能汚染により、その後
も次々と命を落としていく被爆者たちの様子が生々しく伝えられているルポである。新聞はこのルポについて、「このルポ
が当時掲載されていたなら、アメリカ市民のみならず、核に対する国際的な意識も変わっていただろう」と伝えていた。
初回作品のゴジラは、まさしく、ヒロシマ・ナガサキに投下された原爆そのものを表わせていたのかも知れない。
2005年5月22日(日)雨 − 日本が日本であるために −
「第二次世界大戦中に日本企業に徴用された後死亡した朝鮮半島出身者の遺骨返還を進めるため、初の日韓審議官級
協議が25日に東京で開かれることが決まった」ー本日付け毎日新聞の報道記事である。
それによると、朝鮮半島出身者の民間徴用者についてはこれまでに炭鉱などで働かされてきた10万8千人分の名簿の存在
が判明しているが、日本政府は、「国と直接雇用関係になかった」として遺骨収集・返還を避けてきた。その理由は、こ
れら調査を通じて徴用者の悲惨な労働実態が明らかになると、対日補償の要求を迫られる恐れが充分に考えられるからだ
という。
それでは、日本政府が主張する「国と直接雇用関係になかった」という"徴用"とは何か。国語辞典をひも解いてみた。
「徴用」−国家の権力で、国民を強制的に一定の仕事に就かせること(広辞林)。戦争当時朝鮮半島は日本の植民地支配の
下で民族は日本人化を強制されていたという歴史がある。
「過去と向き合うことなしに和解はありえない」とは、ドイツのワイツゼッカー元大統領の言葉である。これに対し自民
政府の誰だったか、「ドイツは自国の罪をすべてナチス独裁のせいにしているからいいが、日本はそうはいかない」と言っ
た。しかし、その言い逃れは適当ではない。ワイツゼッカー自身、ナチス時代に外務次官を務めた父親を持ち、それがため
に深い個人的な葛藤を今も抱え続けている。
他国から縛られることもなく、日本が日本であるために、そして、日本人が日本人であるために、今がいい機会であると
思う。
2005年5月8日(月)晴 − 解放の日 −
5月8日はナチス・ドイツからの「解放の日」。
昭和20年5月8日、ナチス・ドイツは連合国軍に無条件降伏した。その日から今年は60年になる。
昭和20年の敗戦40周年記念式典で、当時西ドイツの大統領であったワイツゼッカーが「過去に目を閉ざす者は、現在
も見えなくなる」と演説したのは有名。
奇しくも今日本は、中国から「正しい歴史認識」を強く求められ、その中国人民の感情が「反日デモ」へと発展し、
韓国からは「日帝強制占領下強制動員被害真相究明等に関する特別法」の成立(2004年2月13日)を生ませ、これまでの
日本政府がこれら国々に対して謝罪と補償をあいまいにしてきたツケをいま払うハメになっている。
「過去と向き合うことなしに和解はありえない」と、自国ドイツの罪を直視するよう国民に訴えた先のワイツゼッカー
元大統領は、過去をめぐる日中韓の対立について、「それは日本人自身の問題だ」と言明を避けながらも、「日本の政治
には"共感"を呼び起こす言葉が欠けている」と、示唆した。
2005年4月18日(月)晴 − 組合旗返魂式 −
「組合旗を天に返すという意味で組合旗を燃やす儀式がありました。その写真を送りま
す」。2005年4月10日、福岡県大牟田市のオオムタガーデンホテルで三池労組解散式が開かれた。便りはこれに参加した
組合員OBからいただいたもの。組合旗を燃やす儀式があることはニュース等で知っていた。しかし、その名称と意味は
今回はじめて知った。いつごろから慣習化してきたのか。
労働運動をけん引してきた最後の炭鉱労働組合ー父ちゃんたちの三池労組が59年の歴史に幕を下ろした。写真はその瞬
間を見事に表わしている。
2005年3月5日(土)曇 − 三池労組解散式 −
4月10日、三池労組の解散式が開かれる。それに伴って、三池労組会館屋上にあった三川坑炭じん大爆発被災者の慰霊碑、
四山鉱正門前に建立されていた、三池闘争中会社側の暴力団に刺殺された久保清さんの慰霊碑が昨年11月すでに撤去され、
隣町の熊本県荒尾市に移設されたという。これら慰霊碑は現場に建立されていてこそ意義があると思っていただけにショッ
クなニュースだった。撤去の理由は、三井側から土地明け渡し要求があったことにもよるらしいが、三池労組関係者の高
齢化等から、その維持管理に苦慮していたというのが真相のよう。
こうして年々炭鉱の歴史を語る遺跡が無くなっていくことは、炭坑夫であった父を含めて、無名炭鉱労働者のたましいの
よりどころか無くなっていくようでさみしい。そういえば以前、三池労組会館が建てられた目的は、解雇等、様々な理由
で全国に散っていった三池炭鉱労働者のこころのよりどころとして建てられたということを聞いたことがある。しかし、そ
の会館もとうとう無くなるという。
2005年2月9日(水)晴 − アウシュヴィッツ解放60周年 −
今年1月27日、アウシュヴィッツ解放60周年式典がポーランドの現地で開かれた。当事者にとってアウシュヴィ
ッツは今も生々しい問題として、ヨーロッパ各国では今も責任追及に力が注がれている。
それでは日本の過去はどうだったのか。聖戦の名の下、アジアの国々の人たちに対して行なわれた加害行為は、今も
正しく語り継がれているのだろうか。戦争中のことだからしかたがないとか、そんな行為はなかったと忘れたふりし
ていないか。
例えば、日本の炭鉱の山深く、あるいは海深く、その地底(じぞこ)には今も帰らぬ他国の人々が眠ったままである
という。負の遺産もまた遺産なのである。これら人々のことを忘れたふりしてはならない。
*アウシュヴィッツは、第二次世界大戦時にナチス・ドイツが占領地ポーランドに建設した最大規模の強制収容所。
150万人の命が奪われた同収容所跡は、広島の原爆ドームと同様に「人類が二度と繰り返してはならない20世紀の
負の遺産」として、ユネスコ世界遺産に登録され、ポーランド政府が国立博物館として保存している。(アウシュヴィッツ平和博物館より)
2005年1月22日(土)晴 − 奴隷1万3千人を融資の担保 −
みだしは、本日付け毎日新聞の記事からのものである。
それによると、19世紀の1831年から1865年頃までの間、米国大手銀行の2社が、アフリカから連れてこら
れた奴隷を融資の担保に受け入れていたとして謝罪文書をシカゴ市当局に提出したというもの。
シカゴ市が2003年、市内で活動する企業に、奴隷制度に関与したことがないか申告を求める条例を制定したのを
受け、社の歴史を調査して分かったという。
この記事を読んで感じたことは、かつては日本もまた、中国や朝鮮から人々を強制的に連行し、炭鉱等鉱山やダム等
で強制労働させた時代があったということ。その清算は、国として、企業として、当時どのようになされたのか。そし
て今、その教訓はどう活かされているのかということである。
2004年11月2日(火)晴 − 香田証生さんの死 −
イラクん人質にならして惨殺された香田証生さんな24歳、福岡県直方市の出身ち。そん直方市は、特に戦中戦後の
日本経済ば支えた石炭の産地やった。命ばかけて石炭ば掘り、貧しかったばってん当たり前んごつして皆が助け合い生
きてきたと。香田証生さんな炭鉱とは無縁やったかんしれんばってん、彼の育った町はそげな匂いの残る町たい。
そげな彼がどげな目的で戦争真っ只中んイラクさんひとりで飛び込んで行ったつか知らんばってん、「平和」ちゅう
とば人一倍想うて戦禍んイラクば自分の眼でたしかめたかったつかんしれん。そげんなら、そんこつは大切にせにゃで
けんばい。人ば中傷すっとは簡単なこったい。
2004年8月2日(月)曇 − 我が母校 緑ヶ丘小学校 −
我が母校は荒尾市立緑ヶ丘小学校である。とは言っても、ここを卒業したわけではない。わずか小学2年生の終わり
までしかいなかった。その後あちこちの地方の学校を転々とした。それでも、我が母校はやっぱり緑ヶ丘小学校である。
緑ヶ丘小学校は当初、三井三池鉱山会社が従業員の子弟のために昭和24年開校した学校である。開校時の児童数は
824名から始まり、昭和34年児童数2122名とその数もピークに達したが、昭和35年11月三池争議妥結後、
児童の転出が相次ぎ、児童数1906名となり、短期間に200名以上が転校していった。昭和38年、筑豊地方の三
井田川鉱、三井山野鉱、北海道の三井美唄鉱から合理化による配置転換があり、150名が転入してきたが、同年11
月9日、三井三池三川鉱大爆発が発生、これら転入生の父兄も含めて、同校父兄52名が死亡。ここでまた子供たちは
転校を余儀なくされ、児童数も1142名と減少していった。さらに昭和61年、造船不況と三井アルミの事業閉鎖に
より、従業員子弟の転出が増加、児童数439名となった。また、平成6年、炭鉱社宅の取り壊しにより、またもや児
童の転出が相次ぎ、児童数も274名と激減した。そして、平成9年3月、ついに三井鉱山が閉山。この年の児童数は
211名であった。
そんな緑ヶ丘小学校の校内へフラリと43年ぶりに入ってみた。これまで何度も学校正門まで行ったことはあるが、
中へ入ったのは初めてのこと。夏休み中であったので、学校はガランとしていた。職員室は2階にあり、その途中の階
段の壁にはこれまでの全卒業生の写真が掲示してあった。職員室へ訪問の理由を告げに行ったら、丁寧に校長室へ通さ
れた。無理を言って卒業名簿を見せてもらった。そこには、昭和28年3月30日卒業の長兄の名前があった。姉の名
前もあった。何かとても懐かしいものに出会ったような気持ちになって涙が出てきた。しかし、次兄や私の名前はここ
にない。卒業名簿なのだから、途中で転校した者の名前がないのは当たり前のことなのだろうが、はじめてそのことに
気がついた。やるせなかった。
2004年8月2日(月)曇 − 第13回平和の灯リレー −
「みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりに
なったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、な
くされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと
思いませんか。こんな戦争をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、
かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわ
すことです。だから、こんどの戦争をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界
戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこして
しまったのは、まことに残念なことではありませんか。
そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、
兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これから先日本には、陸
軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかし
みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の
中に、正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその國と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをと
おそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、
いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずと
も、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そ
うしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國はさかえてゆける
のです。
みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。」
これは、日本国憲法施行の年の昭和22年、文部省が新憲法普及のため、中学校1年生用社会科教科書として発行
した「あたらしい憲法のはなし」という小冊子から抜粋したものである。
2004年8月2日午前9時30分より、荒尾市役所前において、「今年も、暑い夏がやってきました。59年前の
夏、日本は二つの原子爆弾の投下を受け、終戦を迎えました。人々は戦争の惨禍を再び起こすまいと、平和憲法を制定
し平和を願ってきました。現在の日本は、果たしてこのままでいいのでしょうか。平和を訴え、ともに走りませんか」
という第13回平和の灯リレー実行委員会の呼びかけにより、トーチリ
レー開会式が開催された。それは、熊本県下最初のスタートとなった。
荒尾市長をはじめ、岩中県会議員、池田市会議員らも参加しての開会式であったが、一方、「年々参加者が減ってい
く」という嘆きの声も聞かれた。
憲法改正論者が、戦後の憲法は「占領軍による押付け憲法だ」として、自主憲法制定を唱えている昨今ではあるが、
悲惨な戦争の結末を招いた教訓から、新しい憲法の中に「戦争の放棄」を盛り込んだその時代の反省の気持を、我々は
もう一度振り返ってみる必要性があるのではなかろうか。
2004年7月16日(木)雨 − 人生いろいろ −
「あんたどんが、つきまとうけん勝てんやった」ちゃ、陸上男子百メートル世界記録保持者モンゴメリが、全米アテネ五輪代表
選考会んとき報道陣に投げつけた言葉。彼は、米国反ドーピング機関から、禁止薬物使用違反の警告ば通知されとる選手の1人。
「反米マスコミがおかしか。だけん勝てんやった」ちゃ、今回ん参議院議員選挙で苦戦した自民党の小泉純一郎首相どんの言い
訳。自民党は過去の選挙でん、負くっとそん敗因ば"報道"に求めて、規制の動きば強めてきた歴史がある。
起死回生を狙って、参議院議員選挙大阪選挙区から無所属で立候補、落選さした元社民党衆院議員のT氏もまた、選挙期間中、
「あんたどんが、つきまとうけん・・・」ち言いたげに、マスコミに対し苛立ちと敵意ばあらわにした。
「人生いろいろ、会社もいろいろ、人もいろいろ」ち言うたつは当の小泉どん。ほんこて、政治も人もいろいろバイ。
2004年8月1日(日)雨のち曇 − 似九郎の死 −
似九郎(にたくろ)こと愛犬トラが死んだ。私が大牟田に行っている時のことである。当日の朝、大牟田ガーデンホテルを
出て、大牟田駅へ向かって歩いているころ、妻から、「入院しているトラちゃんを引き取りに行く。もうあんたは会えないか
も知れないけど、ええやろ?」と携帯に電話が入った。泣きながら歩いていたら、通りすがりの人がけげんそうにこちらを見
ていた。そして、午前10時54分、大牟田市檪野(いちの)にいた時、「死んだ」という知らせが再度あった。とうとう死
に目に会えず、そのことが悔やまれた。私が最後に会ったのは、病院に入院していた1週間ほど前。「帰りたい」と言って、
「クーン、クーン」とせつなく泣いていたのが最後の姿だった。拾ってきたフーテンのトラであったが、8年間、私と寝起き
を共にした家族だった。さようなら、トラちゃん。そして、「ありがとう」と心から礼を言いたい。
2004年4月7日(水)晴 − 新聞社の姿勢が見えてくる −
3月26日、新潟地裁は中国人強制連行んこつば、「原告らを一方的に強制労働に従事させ、身体、自由にかかわる権利を侵害
したうえ、労働に極めて不十分な食事、衣料しか与えず、宿舎に布団・暖房はなく、入浴もさせなかった。そして日常的に暴力で
監督した」ち「過酷な労働」ば認定し、国と企業に賠償命令ん判決ば下した。
この判決を、毎日新聞は「時効の壁ついに完全勝利に原告ら涙」と好意的に報道。ばってんがら、サンケイ新聞は、「国家間で
解決済みの問題をあえて蒸し返した不当な判決である」と報じた。
同じ事案でん、新聞社によってこげん違うとじゃろかち、ほんなこてそげん思った報道内容。どちらが正しいやら、そげんじゃ
なかか、読者が考ゆっちしたっちゃ、そん新聞社の姿勢が見えゆるごたる報道やった・・・。
2004年6月23日(水)晴 − しのび寄る軍靴の音 パートU −
イラン人と少し話ばするこつん出来た。彼は28歳。簡単な日本語なら結構話しきらす。
「私がまだ子供の頃、イランとイラクとの戦争があった。飛行機が飛んできて、爆弾がボンボンと落ちてきた。隣の家の人や
友達がたくさん死んだ。手のない人、足のない人、首のない人、たくさんたくさん見てきた。私の身体は大丈夫だったが、私の
頭の中は今もそのことで一杯。だから私の頭の中は汚れている。今も夢に見る。だからいつもお祈りをしている。
私は2年間軍隊にいた。でも戦争はしたくない。しかし、プレジデントが戦争をすると言えば、それが彼らの政治だから、私
たちはそれに従うしかない。ヒロシマ、ナガサキ、約60年経った今でも原爆病で苦しんでいる人たちがいる。それが戦争だ。
日本のコイズミが戦争をすると言ったら、あなたもそれに従うしかないだろう?」と語った。
6月18日、日本政府は閣議で、イラクさん主権ば移譲した後に編成さるる多国籍軍に自衛隊ば参加さするち決定した。日本の
指揮下で活動し、人道復興支援中心の活動に重点ば置くげな。
ばってん、そりゃ建前であって、本音は自衛隊から軍隊化への下地づくりんごつ思ゆっと。わが国のコイズミが戦争ばするち言
うたら、私はその時どげんすっじゃろか。
ちなみに、先のイラン・イラク戦争は1980年から1988年までの8年間続いたもので、アラブ人国家イラクとペルシャ
人国家イランによる石油をめぐる戦争であった。
2004年3月15日(月)曇 − 3月10日は「東京大空襲」の日 −
NHKアーカイブス「東京大空襲」ば見たと。3月10日は「東京大空襲」ん日やん。昭和20年の出来事ばい。
「東京大空襲」ん時は、雨あられんごつ降ってくる焼夷弾で、木と紙の日本家屋は燃えてしもて、非戦闘員の女こどもん人たちの
よーけのーならっしゃった。ルールやらなかつが戦争たい。
東京大空襲ん作戦ば指揮したつは、米国空軍参謀総長 カーチス・E・ルメイちゅう人げな。ヨーロッパ戦線やらベトナム戦争
も指揮して「空の英雄」ち呼ばれたげな。
そん「空の英雄」な、そん後の昭和39年12月8日、日本国天皇から、勲一等旭日大綬章ばもらわしゃった。「航空自衛隊育
成に貢献した」ちゅうとが受賞理由らしか。
戦争ちゃ言うばってん、無差別にたくさんの人々ば殺傷した「空の英雄」が、やられた側の日本国から勲章をもろたっちゅうこ
っですたい。摩訶不思議。日本のお人よしもここまでくっと、馬鹿ちしか言いようんなかて。
そんカーチス・E・ルメイば訪ねたNHK記者に、カーチス・E・ルメイは、「昔んこつは忘れた。思い出そごっでんなか・・
・」ち取材ば拒否した。
2004年3月1日(月)曇 − しのび寄る軍靴の音 −
先日、カーラジオでニュースば聞きよって、たまがったこつんあっと。
いま、自民党ば中心にした政権の国会議員の間で、防衛庁ば防衛省に格上げすーちゅう話んほんなこてありよるげな。
元保守党ん現自民党議員になっとらす扇千景しゃんどんな、「銃後の守りはわれら女性にまかせよ」やら言いよった。
そん「銃後の守り」ちゅう言葉ん平気で言わすちゅうとこが不吉な予感ば感ずっと。
三池闘争後、労働組合がちーっとづつ骨抜きにされてしもうたごつ、自衛隊やら軍隊やらちゅうとに我々国民の意識ば
徐々にはぐらかして慣れさすーちゅう手法ん見えてしかたんなか。
たしかに自衛隊も大事、国際貢献も大事じゃろばってん、そん先によーなかこつん待っとるごたる気んしてならんばい。
2004年3月10日(水)曇 − びわ湖毎日マラソンと炭鉱 −
ついこん前の3月7日、第59回びわ湖毎日マラソン(滋賀県)ば開催しよらしゃったばってん、新聞ば眺めよったら、歴代優
勝者ちゅうて、第1回(1946年)と第7回(1952年)ん大会に、三井山野炭鉱ん名の記されとっとに気がついたと。
炭鉱ば慕う者としては、こげなところで三井山野ん名ば見て驚くと同時に素直にうれしかった。
第7回の優勝者の三井山野炭鉱の選手は内川義高ちゅうて、五輪ヘルシンキ大会にも出場しとらす。ばってんがら、残念ながら
結果は途中棄権で、その時ん優勝者は人間機関車の異名ば持っとらすザトペックやったて。
そりから、福岡県嘉穂郡稲築町にあった三井山野炭鉱は、昭和48年3月30日、75年の歴史ば閉じた。
人によっては炭鉱で働く者ばとやかく言う人もおらっしゃるごたるばってんさい、こげな素晴らしか逸材が炭鉱にいたことば誇
りに思とっと。
2004年2月26日(木)曇 − 炭婦協行進曲 −
炭婦協(三池炭鉱主婦協議会)の緑ヶ丘社宅副分会長として三池闘争の中ば生きてきた母は四国ん出身やったと。そげな母が当時おり
が故郷のきょうだいに宛てた手紙ば見るこつん出来た。そこには、「三池ん闘いん中で私はもう疲れました」ちゅうごたるこつん書かれ
とった。この手紙ば読んで私は、「こりが当時の母ん正直な気持ちやったとか・・・」とがん感動して、涙が出るごたる思いやった。
と、その時目ん覚めた。「夢やったつか・・・」。そんにしたっちゃ妙な夢ば見た。母ん姿はのーして、手紙だけん夢。ほんなこてそ
げな手紙があっとなら、しゃがむっでん見らにゃんばい。 三池闘争んころ母はほんなこつは、どげん思いよったっじゃろか。
2004年2月23日(月)曇 − キットカット −
ちっと時期はずればってんさい、今年んバレンタイン・デーではっさい、「キットカット」ちゅう銘柄んチョコが受験生ん間でよー
売れたらしかと。だいたいは数年前、九州地方で流行ったつが最初げなばい。
九州弁でキットカットち言うと「しゃがむっでん勝つ」ちゅう意味たい。わかんなはっですか。わからんでしょたい。ばってんさい、
思いもせんごたっとこでふるさとん言葉の流行ってうれしかやん。
2004年1月27日(火) − ウソは泥棒の始まり −
「ウソは泥棒の始まり」ちゃ、先日、福田官房長官様が言わした言葉ばい。
何のこっちゃろか〜ち思いよったら、ある野党んK議員が衆議院議員選挙ん際、米国ん大学ば卒業しとらんとに「卒業した」ち選挙
公報に学歴ば掲載したこつが原因で、公職選挙法ん学歴詐称ん罪になるかんしれんげな。
いまテレビはそん疑惑で連日賑わっちょると。本人はそりでん「国会議員はやめん」ちゅうてがんばりよらしゃるばってっんさい、
そがしこ政治屋さんの仕事な旨みんあるちゅうこっですたい。
「ウソは泥棒ん始まり」ちゃ、子供ん頃よく母親から言われた言葉ばってん。こんだ、ウソばつくと、どがしこしっぺ返しんあるか
ちゅう、子供ん良か教材になったじゃろて?
そげん言うと昔、おりどん子供ん間でもん流行った言葉に「私はウソは申しません」ちゅう池田元首相の名文句(?)があったばい。
いつでんトップ当選ばする西川きよし議員は中卒やった、時の人やった田中角栄元首相は高等小学校卒やったこつば考ゆっと、今ん時
代な、汗ばかくこつより、見た目ん"カッコ良さ"だけが求められよる時代かん知れん。
2003年12月1日(月)曇 − ある元三池主婦会員の死 −
12月1日、荒尾から一通の訃報を知らせるハガキが届いた。
それは、三池労組本所支部臼井地域分会時代を一三池主婦会員として頑張ってこられた織田フミエさんが、11月16日荒尾で開か
れた三川坑大爆発祈念集会の翌日に倒れ、90歳で亡くなったというものだった。
晩年の織田フミエさんは高齢のためもあって多少ボケておられたそうだが、三池闘争の話になると顔が輝き、話が止まないほどだっ
たという。
来年帰郷した折には三池闘争時の貴重な話を聞かせてもらう約束をしていただけに、とても残念でならない。61歳で亡くなった私
の父も、今も生きていたなら90歳過ぎになる。
奇しくも本日12月1日は、あの313日の「三池闘争」終結の日である。
2003年11月28日(金)曇 − SPレコード盤の中の三池闘争 −
今年9月、荒尾の元三池労組員から三池労組組合歌「炭掘る仲間」のSPレコード盤を見せられた。大袈裟かも知れないが、その時
私の体に電気が走った。
「このレコードは、三池労組本所支部臼井地域分会で保存されてきた最後のレコード。三池闘争以来、集会連絡用に使われてきた。
緊急動員指令の時は「もやせ闘魂」が流され、ストライキ中止指令の時は「炭掘る仲間」が、必ず放送の前に流された。これらの曲が
流れると組合員は緊張したものだ。しかし、夜中にも遠慮なく流されるため、社宅以外の近辺の人たちからは苦情もあって、賛否両論
だった」。そう説明する人の言葉に「三池闘争」の頃の様子がよみがえる。
全国へ散っていった元三池労組員の人たちは、今でも「炭掘る仲間」を聴くと涙するという。そういう私の父も異郷の地で、ひとり
よく「炭掘る仲間」をハーモニカで吹いていた。それが子供心に、妙に哀愁を帯びて聴こえ、「もういっぺん吹いて」と催促していた
のを覚えている。
「昭和41年」とペンで書き込みがあるだけの何の装飾もない「炭掘る仲間」の古ぼけたSPレコード盤。この中の労働歌をなんと
かよみがえらせたい、なんとか保存できないかと借り受け持ち帰り、仲間と共同で製作依頼。
そしてついにここにCD「炭掘る仲間」1枚が完成した。製作費CD1枚16100円。これをそのまま高いと見るか安いと考える
か、ふるさとのうた「炭掘る仲間」に対する価値観の違いだろう。
これも炭鉱遺産の保存のひとつだと自負している。
2003年11月12日(水)晴 − 三池関西写真展の中の我がふるさと −
11月9日開館した三池関西写真展も、本日12日午後6時をもって閉館された。正式名は「1960年三池・1963年CO大災
害関西写真展」という。
「総資本対総労働の対決」と言われ、313日間、福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがって闘われてきた三井三池炭鉱における
三池争議は、1960年、三池労組の敗北に終わった。そしてそれは同時に、現在社会全体に吹き荒れているリストラの嵐の始まりで
もあった。その現況を思うとき、三池労組の敗北は、いわゆる第一組合の敗北だけではなく、三池新労組という第二組合の敗北でもあ
り、日本全国労働者の敗北でもあったのではないか。しかしこの時、どれほどの人がこのことに気がついただろう。
「三池闘争は、”三池労組対三井”というよりも、三池労組をはじめとした総労働と裁判所・検察庁・警察など国家権力を総動員し
た政府との闘いであったように思う。国家が本気を出せばこんなものだという権力の恐ろしさを私は感じた。」と、写真展会場で出会
った元三池労組四山支部長は当時を振り返った。
その一方で、「三池争議は青春そのものだった。世の中がどう変ろうと当時の考えを変えるつもりはない。自分の青春時代をちゃら
にするようななことはできない」と、会場の写真を見詰めながらきっぱりと言い切る元オルグの73歳の男性もいた。
2003年1月11日(土)快晴 − しあわせの歌 −
CDアルバム「しあわせの歌」ば買うたばい。「がんばろう」やら「聞け万国の労働者」も挿入されとっと。
こげなこつば言うと「あんやつぁ、やっぱし、ちった変わっとる」ち思わるっかんしれんばってん、こん曲はオリがナツメロであり、
ふるさとん歌ち思とっと。当時おりゃ小学校低学年やった。炭鉱社宅で三池闘争ん明け暮れん中で、聞くとはなしに聞きよった父や母の
労働歌。
ありから40数年が過ぎ、今年の春闘は、先手ば打って経営者側が「首切りばさるるごつなかなら、賃下げば飲め」ち労働者側に要求
ば突きつけてきよる。これに対し、今や御用組合に成り下がってしもうた日本の各労働組合は早々とベア要ば断念した。
かつておりどんが親たちは三池闘争ん中で、「しあわせはみんなの願い」ちゅうて、「仕事はがんきつかばってんがら、流るる汗に未
来ば込めて、明るい社会ば作るため」ち闘こうてきたとじゃなかったつかん。そりがなんな、「労働者の不幸せは企業の願い」と言いよ
るごたるばい。日本の経団連どんな今や言いたい放題やっか、やりたい放題やろが。ぞーたんのごつ。
今こそ、「みんなと歌おう、しあわせの歌を」。そして、「ひびくこだまを、追って」行かにゃならんばい。
2002年11月14日(木)晴 − 「三池争議テーマの写真展」の問い掛け −
「いまリストラ・過労死ん中で、なしけん誰っでん闘わんとか!」ち「三池争議テーマの写真展」が問い掛けてきよっですたい。
私もそげん思うと。むずかしか理屈はわからんばってん、素直にそげん思う。それはなしじゃろかち疑問に思っとったこっです。
国家まででん揺るがした三池争議ん敗北は、そのまんま働く者ぜんぶん敗北であったつかん知れん。それ以後、日本の鉱山がなん
でんかんでんつぶされちしもち、国鉄がJRに、電電公社がNTTに民営化されち労働組合が骨抜きされたごつ、おりどんの気の付
かんところで、おりどんが魂 まででん国家にマスコミにコントロールされてしもうとっとたい。そんこつば、おっどんな、てーげー
で気が付かんとでけんて。
2002年11月11日(月)晴 − 「労働組合」は死語になった? −
いま東京・新宿で「三池争議」ば記録した写真展「1960年・三池」ちゅうとが開催されよる。
写真展ば企画さしたとは、かつて、あん争議で解雇された一人の元炭鉱マン(63)の人どんで、「石炭でん何でん知らん都会ん若者
たちにでん、労働者が仲間とどげん働き、生きとったかば知ってほしか」ちゅう思いから開いたげな。
そがん言うとこん前、福岡県大牟田市にある三池炭鉱労働組合会館の所在地ば知りたかけ〜んち、NTTん電話番号案内さね電話ば
した時のこつばってん、案内係ん女性ん声な若かったて。おそらく二十歳前後じゃろて。おりゃ「三池炭鉱労働組合会館ん電話番号と
住所ば教えちくれんじゃろか」ち頼んだ。すっと案内係は即「そげな所はありません」ち答えた。おりゃは「そげなはずはなかて。ま
〜だようと調べてくれんの」ち食い下がったと、一時してから、「やっぱりなかですばい。三池炭鉱ち何のシゴツばしよらす所ですか」
ち聞いてきたけん、おりゃあ然としたばってん、「炭鉱、石炭たい!」ち言うた、そりばってん、ま〜だ解らっさんと。「タンコウ?」
ち言わすとですたい、まだ理解でけんごたる風じゃった。そして「三池炭鉱労働組合会館はなかですが、三池炭鉱労組としてなら届出は
あります。どげんしなさっですか?」ち言うてきた。おりゃ、「労働組合」も「労組」も同じこっじゃろもんち思いながら、「NTT
が電電公社ち呼ばれよった頃はまだ労働組合も活動的やったとに、今はそん言葉も忘れられち死語になってしもうたじゃろか」ち、
なんかわびしゅうしてのさんて、ほんに、がく然としたばい。ほんなこて。
2002年5月31日(金)曇 − 厚生労働省検討会グループ調査結果 −
きょうの毎日新聞トップページに、
じん肺患者 肺がんリスク3.7倍 厚生労働省検討会グループ 因果関係を認定
というみだしで「じん肺」のことが大きく報じられていた。
そう言えば、三池炭鉱で採炭の仕事をしていたという私の父は、タバコを全く吸わなかったのに肺がんとして61歳で亡くなった。
他の臓器にも転移していて手遅れだった。当時担当医から「お父さんは肺が真っ黒でしたがよくタバコを吸っていましたか?」と聞か
れた。「タバコは全く吸わなかったが、以前は炭鉱で働いていた。」と答えると、医者は「ああ、それで」と納得していた。今でさえ
「じん肺」の専門医が少ないと言われている中で、当時はなおさらであったのだろう。
昭和35年の三池争議で、48歳の時首を切られてから、13年後のことである。
2002年4月27日(土)曇 −「募集」という名の強制連行 福岡訴訟判決におもう −
「中国人強制連行 三井鉱山に賠償命令 福岡地裁判決 初の企業責任」ー夜勤から帰宅して昼、新聞(毎日)ば開けたオリが眼に、
そりは衝撃的なニュースとして飛び込んできた。「もうがん昔ん過去んこつ」としてうやむやにされとった誤魔化しん歴史が、今、地
の底から現在に蘇ったばい。
熊本県荒尾市の南端にある熊本県立公園小岱山(しょうたいざん)の西峰標高501メートルの山頂に、三井三池炭鉱中国人殉難者
の慰霊塔がある。ばってんそりゃ、三井鉱山が建設したとじゃのーして、ひとりん元三池炭鉱労働者が田畑ば売ってまで資金ば工面し、
周囲の協力ば得て完成させたとばい。そこには、昭和19年5月16日、中国人労働者37人と日本人労働者11人が死亡した三川鉱
坑内火災現場に救護隊員として駆けつけた或る炭鉱労働者の忘れようちしたっちゃ忘れられん凄惨な災害現場の思い出が脳裏に焼きつ
いて離れんやったげな。その後、せめて慰霊祭でんち、会社側に交渉したばってん対応は冷とーして実現せんやったと。そんなら自分
でち、会社退職後、慰霊碑建設の運動ばおこし、昭和57年、三井三池炭鉱中国人殉難者慰霊塔ば小岱山に完成させたとたい。
また、山口県宇部市西岐波の長生海岸沖に、海底炭鉱やった旧長生炭鉱の遺物んピーヤ(排気・排水坑)がある。
そこには今でん、昭和17年2月3日、坑道水没事故ん犠牲者となった約183名の炭鉱労働者が引き揚げられちももらえんで眠ったままで
おらっしゃると。そん犠牲者の内、約135名が朝鮮の人たちで、彼らもまた、「募集」ちゅう名ん強制連行で日本さん連れてこられ、
強制労働ば強いられた人たちたい。ここでは現在も慰霊碑建設の運動が推進中で、完成の見通しはまだつかんげな。
先ん中国ん人どん、また、こん朝鮮の人どんな「なしけん、異国ん地である日本で死なにゃいけんとやったとか」ちゅうこつたい。
そんこつばオリどん日本人はよーと考えにゃでけんばい。そりから、なっだけ早ようこん問題ば解決して、誇りある日本づくりば進め
て行かんとでけんたい。
2002年4月7日(日)雨のち曇 − 肉弾三勇士之墓にみる炭鉱史 ー
京都・東山五条に「お西さん」ちゅうて親しまれとる西大谷派ん広大な墓地がある。そんなけ、昭和7年2月22日、日支事変で爆弾ば
抱えて敵陣に突入したちゅう肉弾三勇士之墓んあっと。そけ、そん三勇士ん一人として「江下武二」ん名が刻まれとる。ばってん、彼
が九州筑豊ん炭鉱労働者じゃったこつは今は誰あれん知られとらんて。戦時中、炭鉱経営者は、こりば滅私奉公ん模範として石炭増産
運動に利用し、戦意ば高揚させち国家に貢献したげな。そして、浄土真宗ん宗門も同じごつ「三勇士は我が真宗の門に出ず。これ栄誉
なり」やら言うて巧みに利用しよった。そん三勇士之墓んすぐ傍に、まぐれかどげんか知らんばってんがら、貝島炭鉱ん開祖ん貝島太
郎が眠っとる「貝島家累代之墓」がある。先の江下武二の両親と兄2人はかつてこん石炭王ち呼ばれた貝島太郎経営の岩屋炭鉱(佐賀県)
で働きよったげな、こりも偶然にしちゃ出来すぎた話たい。
そりから、こん墓地ん隅に三池炭鉱の労働者じゃったオリが父もまた眠っとる。きょう、1年振りんここさね墓参りばした。
2002年4月1日(月)晴 − オリげん三池争議 ー
4月1日エイプリルの日は母の命日ですたい。昭和56年4月1日福井県鯖江市で交通事故で死んでしもうた。64歳やった。
昭和35年9月6日三池争議敗北。指名解雇者1200名の中ん一人やったとばってん、翌年3月、私たちはふるさとば出た。その
出発点が荒尾市電の終着駅「山の手駅」やった。組合の「赤旗」と「楠元さん、バンザ〜イ!!」ちゅう見送りん中で、母はずっとう
つむいたままやった。
博多駅じゃったろか、ものすごか人ごみに押されながら窓から列車に乗せられた記憶があっと。そして私たちば乗せた列車な一路岐
阜さん目指して走り出した。どんくれぐれ乗っとったじゃろか。そんうち夜ん来て朝ん来て、そりでんま〜だ列車は走り続けよったご
たっ。
父は何かあると、よ〜、「こげん寒かとけ来るとじゃなかった」ちぼやきよった。すっと母は決まったごつ「何ば言いよっと、いま
さらんごつ。父ちゃんがしっかりしぇんやったけん、こげんなったとやろが。」ち言い返しよった。すると父もまた「何ち!!そりゃ
お前が」と言いかけて、それ以上言うとばやめて黙り込みよった。ばってん、ほんなこつば言うと、母が三池炭鉱主婦会の若葉分会副
分会長ばしよったけんちゅうこつば近頃知ったと。そりが、母に「父ちゃんが三池炭鉱で働きよったこつば誰にも言うたらでけん」ち
故郷を離れちから ずっと、言わせよった理由やったつかんしれん。
そげな父も昭和48年1月10日京都で病死した。61歳。肺がんやった。そん
父が亡くなる前、私たちは担当医から「お父さんな肺が真っ黒やったばってんタバコばよーけ吸いよらしたですか?」ち聞かれたこと
がある。「いや、タバコはいっちょん吸わんやったばってん、以前は炭鉱で働きよったです。」ち答ゆっと、医者は「ああ、そりで・
・・」ち妙に納得しよった。いま思うと、父もじん肺に冒されとったじゃろう。
故郷ん熊本から岐阜さん行って、岐阜から京都、父はここで旅ば終えち、京都から滋賀へ、滋賀から福井さね、母はここで長か旅を
終えた。そしてオリは今、滋賀におる。オリげにとって三池争議ちゃいったい何やったとじゃろか、オリやいま地の底ん母に聞きよっ
と。オリが旅は、まだ、終わらん・・・。
2002年3月23日(土)曇時々雨 ー 「炭鉱」が「タンコウ」に成り下がったときー
「炭鉱」ちゅう言葉はもう死語になってしもうたとやろか。故郷の三池炭鉱の歴史ばもっと知りたかけん、彦根市立図書館へ行った
と。館内の書棚にそげんのごたる本の見当たらんやったけん、私は受付ん係員に「炭鉱関係ん本ば探しよっとばってん・・・」ち尋ね
たと。そおすっと、50前後のその女性は「はあ?タンコウ? タンコウち何?」と横着っか言い方やった〜。私が「炭鉱んこつ。石炭た
い。」ち言うと彼女は何がおかしかったとやろか知らんばってん、「フフン」と笑わした。 私はこん時、思わず赤面したばい。この彦
根ん近くにでん、昔、犬上炭鉱ちゅうとがあり、昭和36年の閉山まで市内の紡績工場さん木質亜炭ば供給しとったげな、そげな時代
んあったとばってん、先人たちんそげな苦労が無視されたごつして、私は悔しかったばい。
平成14年1月30日、北海道釧路市にたったひとつ残っとったわが国最後ん炭鉱「太平洋炭鉱」が閉山されたつばい。かつて、わが国の
重要産業やったこれら「炭鉱」も、そんうち、また「タンコウち何?」と言われるとやろうかあ〜ち思うと、おりゃがん悲しかて。
2002年3月14日(木)晴 ー 労働組合が労働組合でなくなったとき ー
昭和35年、日本最大の労働争議ちいわれた「三井三池争議」の終わりに、三池労組紅葉ケ丘分会長じゃった指名解雇者代表ん
那須さんな、三池炭鉱三川坑ホッパー前で、
「私たちが職場を去るにいたしましても、たとえ、ここを去るにいたしましても、全くキザな言い方ではありますけども、後に
続く者を信ずと言ってやめていきたいわけであります。このことが、やめていく1200名と、残る9000人の組合員と家族と
の間にしっかり約束されない限りは、なんのために我々1200名がやめていかなければならないか、全く意味がないわけであり
ます。」
ち、残る者への挨拶ん中でいわした。
また、三池労組書記長やった灰原さんな「三池労組ん敗北な、三池労組だけにとまらんで、今後こりがきっかけになって日本の
労働運動は衰退の一途ばたどっていくやろう」と未来ば予言さした。
そして、今、日本ば代表する大企業は競い合うごつして働く者の人員削減ば押し進め「能力んなかもんな出て行け」ち企業側は
強気の一方であり、労組側も「クビだけにゃしぇんでくれ」ち会社側にへつらい、ベアはゼロどころか、会社側から賃下げの逆提
案ばされた中小の労組もあるげな。今んごつ労組ば必要とする時代はなかはずばってん、そん労働組合自体が機能ば果たしとらん。
なしけん.こげんなってしもうたっじゃろか。人間の価値が軽んじられとる現在、かつての国鉄ん解体、石炭産業ん衰退は、決し
て単なる過去の出来事じゃなかですバイ。
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